2011/04/23

国益とか防衛ということについて

私が国益とか防衛ということについて云々することは、滑稽極まりないと思っている。
国益で潤うのもごく一部の人間で、それを私が云々したからとて、その恩恵に授かれるとは限らない。場合によっては、国益の名の下に棄民として遺棄されたり、人身御供にされたりする身であることを考えると、どちらかといえば私の暮らしは「国家からいかに我が身を守るか」の方に力を注いでいる。

私は、日本に武力や核は要らないし、危険な原発も要らないと、基本的に思っている。
私は、自分のやらないことを人に押し付ける気はない。自分が兵隊や自衛隊に行くわけでもないのに、人にそれをせよなどと、おこがましいことを望まない。
有事の際にダンナを兵隊にとられるのは嫌だし、私が挺身隊として連れ去られるのも嫌である。自分の嫌なことを他の誰かに身代わりを強いることは、本意でない。

それはあくまでも私の思いであって、世の中の事情はそうではない。それだから世の中では、国益とか防衛について云々することが必要になってくるのだろう。しかし私が云々したところで、私の思いが世の中の事情に反映されることはないけれど。

有事の際に兵士に志願する人もあるだろう、自分はやらないけれど、あいつらにやらせようと画策する輩どももいるだろう。
私は兵士に志願しないが、もし仮に、私が兵士だったなら、武器も持たず訓練も受けずに、丸腰で戦地に赴くのは嫌だろう。命を懸けて報酬が安いと、任務をこなす気にはなれないだろう。
だから私は、兵士には武力を持たせることを望むし、報酬をはずむようにとお願いするだろう。また、私が望まなくても、戦争に勝つための恐ろしい兵器が、どのみち開発されるだろう。

私の思いは「中るか外れるか」だけで、国益や防衛を云々する専門家たちが、何もかも決めて、勝手に何でもやってしまうものである。

正直な話、最悪の場合、いかにして誰の役にも立たずにムダ死にするかに、私はプライドをかける。
また、非力と知りながらも、反戦・反核・平和への祈りの心の灯火は、消えることがない。核も戦争も侵略も「必要悪」ではなく、「純然たる悪」である。自分のブログの中では再三繰り返すが、私の人生の憂鬱の原因は、「誰かを犠牲を当然と思う世の中」そのものなのだ。



と、井沢元彦著『神霊の国 日本―禁断の日本史(以下引用↓)』を読みつつ、世情を加味しつつ、あらためて自分の思いを確かめてみた。

日本人は、防衛というのは面倒くさい、そんなものはなくてもいいのではないか、あることでかえって縁起が悪くなるという考え方をする。つまり、防衛などといったものを考えるから戦争が起こるのだという発想をしてきた。それが神道における言霊の思想であり、日本人の九九%はその信者である。「私は違う」と怒る人もいるが、これはまぎれもない事実である。言霊思想というのは、「何かを想定してはいけない」と考えるものだ。

太平洋戦争でも言霊の力が作用した。日本が戦争に負けるということを言葉に出すと、それはどんな動機からでも、非国民の敗戦主義者になってしまう。もちろん、なかにはほんとうに負けてほしいと思っていた人もいたかもしれないが、少なくとも連合艦隊司令長官の山本五十六が、アメリカと長期戦を戦うのは「絶対だめだからやめろ」といったのは愛国心からである。それでも、あいつは恐米病だとか非国民だとか敗戦主義者だとかいうことになってしまう。口にだした時点で、それを望んでいることになるわけだ。それゆえに軍隊という存在自体が戦争をよぶような気になってしまう。

よって、平和、平安を手に入れようと思えば、軍事、侵略に関係のあるようなものを全部排除してしまうことになる。…

貴族が武装せず、平和を求めるのは、日本史上だけの顕著な特徴である。それでも太古の貴人は武装していた。…(略)。ところが、平安時代ぐらいになると、まず天皇はいっさい武器をもたない。もつとしても象徴的な剣ぐらいだ。貴族たちも、鎧も着なければ刀ももたない。…(略)。これに対してイギリスとか中東諸国では、貴族イコール武人である。日本以外のすべての国はそうなのである。…(略)。では、いざ戦争の事態には困ったのではないかということになるが、それは戦争請負人=武士にやらせるのである。自分たちはけっして手を汚さない。手を汚すのは武士である。

なぜこのようなことになったかというと、そもそも神道に穢れの発想があるからだ。穢れは日本人にとっていちばんいけないこと、いちばんの悪であって、現代の穢れよりももっと範囲が広かった。たとえば、殺人罪などの罪の穢れ、あるいは死の穢れ、血の穢れなども含んでいた。よって、平安時代になると、前の奈良時代とまったく違って死刑が執行されなくなる。

それほど死の穢れ、血の穢れを貴族たちは嫌った。だから、戦争をしなければいけないというときでも、けっして自分たちは武器をとろうとしなかった。人にやらせたのである。