2011/05/06

「世界は舞台男も女もみんな役者」

私は演劇科を、奇跡的な出席日数で卒業している。(
演劇科の訓練棟には、シェイクスピアの喜劇『お気に召すまま』の有名な台詞、「世界は舞台男も女もみんな役者」を刻んだ碑が看板に掲げられていた。

「役者は嘘をつかない。嘘をつく役者は大根役者だ」

詩人でもあった恩師の放った言葉の種は、確実にバカな私の中に芽吹いて枝葉をつけた。

やはり、この世はかりそめの茶番劇だと、私は思う。
そして、己の内側から突き動かすものこそが真実だと思う。
私は、私を突き動かす真実が生きてはいけない世界だから、この世をかりそめだと思う。
かりそめの世で、居心地のいい場所を築くのは、人が苦しむのを楽しめるようでない限り、至難の技だ。
せめて、全てを茶番だと割り切れば、身軽にはなれる。

もう鬱陶しいから、この茶番劇終わってくんないかな、と人生に対して思う部分は大きい。自殺する人々の気持ちもわからんでない。ただ、自らの手で生きる道を絶つのは傲慢だと、生かすも殺すも神の御技と信じる国の人々ならば、そんな風に理解するのだろう。
他人の不運や不幸を見て、何が面白いのか、その上に胡坐をかいて幸せを享受する神経は、私は正直、持ち合わせていない。
そうまでして生きながらえたい人生、ではない。私はやることをほぼやり尽くしている。平安時代あたりの寿命だとすると、私などは長生きした方だ。
それでも、まだいのちの余力が尽きていないので、その分生きていなければならない。いかにして、この生きている時間を潰すか。

自分で言うのも何だが、私の性根は勝手気ままな善人なのだ。争いの火種を生むよりも、その火消しの側の人間だろう。
野蛮の本性とは、争いの火種でぬくぬくと暖をとる連中のようだ。連中のくべている薪は、他人の命そのものだ。
その野蛮人が「キレイ、キタナイ」を区別して、お上品の真似事をしているわけだ。
どうすればあのように野卑にブサイクになれるのか、その方法がわからない。と、理解に苦しんだ挙げ句、そうか、私は野蛮な人間には向いていない、と気付く。
それでここまで悩み抜いて生きてきた私は、紛れも無い善人だと自覚せざるを得ない。

小手先の小器用さで、アサハカに小馬鹿にするのが旨の輩を信頼することはできない。
それよりも私は、不器用でもいのちの限り、必死にもがき叫ぶ人々の方を信頼する。茶番の役者では、明らかにそちらの方が格が上に見える。何故なら、嘘をつくのは大根役者だから。いのちの限り必死、という状態では、嘘のつきようがない。
たとえば、シナジー効果で中国とのビジネスなどと謳われても、私が中国とつながるとするならば、俗物よりも、中国国内での弾圧に対して声をあげようとする、運動家たちとつながりたい。

私は、人殺しの経済を信奉し盲信する連中とは、違う地平線上にいる。たとえ連中と会って話をしても、楽しいと思うことは無いだろう。現に、女子たちの俗っぽいお喋りを、楽しいと思ったことは殆どないし。若い時分ならまだともかく、昨今に至ってはその楽しみ方に、本当に苦心する。
自分が楽しいとは思えない他人の楽しみに付き合わされるのは、全く大きなお世話様である。

思うに、己の身かわいさのあまりに保身にエネルギーを費やし続ける「何も失ったことがない」という人ほど、愛を知る機会も無かったろう。愛を小馬鹿にする彼らの口が愛を語ると、どこかで学習してきたんだろうが、己の放埓な欲望を満たすことだと言い張るのである。「笑い」と「哂い」の区別もできない、粗雑な感性に成り果てるわけだ。この茶番劇の中に登場しても、彼らからは何ら学ぶことはない。むしろ、目障りなので、彼らの出番はなくてもいいとすら思う。

私はいかにして野蛮人と関わらずに生きていこうか。
連中に何ら望むことなどないが、関わらなければならないとしたら、何をもってあれらに触れようか。ウンコ突き用の棒が要る。