2011/06/14

『自由と社会的抑圧(1934)』

以前から読みたいと思っていたシモーヌ・ヴェイユ()を、岩波文庫が私に黙ってこっそり文庫化していた。それをじわじわと読んでいるところである。
以前探した時は、高価な分厚い手の出ないような本しか売っていなかった。

今読み始めた『自由と社会的抑圧(1934)』のカバーに書かれていることを引用すると、「全体主義・マルクス主義をともに批判の俎上にあげつつ自由な社会を希求する誠実で真摯なその考察は,いまなお色褪せることない現代社会の指針となろう。
ということで、ちょっと紐解くと、マルクスがボロクソにこきおろされている。

抑圧的ならざる社会をついぞ樹立しえなかったのはなぜなのか。こうしたことをマルクスは説明なしで捨ておく。

などと。
ちなみに、私はTwitterでマルクスbotのツイートが流れるのを、たまに横目で眺めるだけで、マルクスをあまりよく知らない。ただ、大勢の友達から借金していたというエピソードは聞いて知っている。
以下はシモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』より。

権勢の保持は、権勢を享受する人びとにとって、生命にかかわる必然である。けだし権力者を養うのは権勢であるので。

ところで権力者たるもの、対等の競合者と同じく劣位者にたいしても、おのが権勢を保持せねばならない。劣位者としては、害をなす主人を厄介払いしようとせずにはいられない。

主人は奴隷を怖れるからこそ、奴隷にとって怖るべき存在になるからだ。

主人と呼ばれる人びとは、たえまなく権力を強化せざるをえない。さもなければ権力を奪われてしまう。かくて、本質的に掌握しえない支配を追い求めて、ひたすら奔走するはめに陥る。

なにゆえ、死を招くだけの無目的な戦争のために、だれもが自己を犠牲にするのか、さらには親族をことごとく犠牲にするのか、その理由を知る者はいない。

よりよく生きる手段にすぎぬ事物のために、各人が自身と他者の生命を犠牲にすること、これこそが社会的な存在を支配する全活動をつらぬく法則なのである。

こうした犠牲はさまざまな形態をおびるが、いっさいは権力の問題に要約される。

権力は定義からして手段しか構成しない。さらにいえば、権力を有するとは、個人が単独で行使しうるきわめて制限された力をこえる行動手段を有することに尽きる。

しかし、どれほど権力を追求しても、対象を掌握しえないという本質的な無力さゆえに、権力の追求は目的についてのあらゆる考察を斥ける。

やがて避けがたい転倒が生じて、ついには追求がいっさいの目的にとって替わる。

歴史上にあふれかえる無思慮と流血を説明するのは、手段と目的との関係の逆転、すなわち根源的なこの狂気なのである。

“手段と目的との関係の逆転”を“狂気”と呼んでしまうあたりに、深く共感する。

もしかすると現代の権力者たちの多くは、シモーヌ・ヴェイユの言うような「本質的に掌握しえない支配を追い求めて、ひたすら奔走」するのだという自覚の上で、あえて支配を追い求めて、隷属する人びとに無茶振りしているのではないかと思える。
権力者がそういったものだとすると、隷属する人びとを抑圧することを、決してやめないし、人を苦しめ殺しても、反省することもないだろう。権力者自身が「そういうものだ」と自分で割り切っているわけだから。
それとは逆に、権力者が「本質的に掌握しえない支配を追い求めて、ひたすら奔走」という自覚も無く、権力者でいるのだとしても、どちらにせよ目障りな連中である。

先頃、『権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験』という記事を見た。以下に一部引用すると、
権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという…云々。
などとある。
いずれにせよ、権力者自身が権力の奴隷といった感。