2011/06/30

“手段と目的との関係の逆転”という“狂気”

私のブログのプロフィール欄の、「主体性に富むが、協調性に欠ける」は、小学校の通信簿によく書かれた言葉だ。旧知の人々の誰もが納得する、私を的確に言い表すのに、すこぶる言いえて妙だと思って、この言葉を選んだ。

私が、居心地の悪い人の集団をもそもそと抜け出て、だれが見ても欲しい気を起こさないような、だれにも必要のない、いちばん小さなものだけを、自分のためにとりわけ(ようとするのは、本能的に自分の生命を守ろうとしている衝動からだろう。そうすることで、人間の嫉妬と欲望の危害に遭わずに済む。

よりよく生きる手段にすぎぬ事物のために、各人が自身と他者の生命を犠牲にすること、これこそが社会的な存在を支配する全活動をつらぬく法則なのである。

こうした犠牲はさまざまな形態をおびるが、いっさいは権力の問題に要約される。

権力は定義からして手段しか構成しない。さらにいえば、権力を有するとは、個人が単独で行使しうるきわめて制限された力をこえる行動手段を有することに尽きる。

しかし、どれほど権力を追求しても、対象を掌握しえないという本質的な無力さゆえに、権力の追求は目的についてのあらゆる考察を斥ける。

やがて避けがたい転倒が生じて、ついには追求がいっさいの目的にとって替わる。

歴史上にあふれかえる無思慮と流血を説明するのは、手段と目的との関係の逆転、すなわち根源的なこの狂気なのである。

上の引用は、シモーヌ・ヴェイユの言葉。(
ここで言われる、“手段と目的との関係の逆転”という“狂気”から逃れたい衝動が、今私を「主体性に富むが、協調性に欠ける」ような者に成らしめている。

溝が深まるだけで、親睦の深まらない親睦会。
利益を上げる目的を見失って、ただただ利益のために手段を選ばない企業群。
反原発・脱原発が生きる手段にとって替わる左翼。
マニフェストを謳い、そこで謳った目的を見失ってグダグダになる政党政治。Twitterのタイムラインを眺めていると、こんなツィートが流れてきた。
@copelkun:いま一度思い出して欲しい。民主党政権が有権者から委任を受けた仕事はただひとつ、「天下りの根絶」だったはずである。天下りなど誰も口にしなくなると同時に検察はおとなしくなり、そして消費増税路線だけは着実に進む..

そして繁殖行為を単なる快楽に貶めて、本来備わった産み育てる知恵も力も損なわせる性情報。

私は少し前に今、何がしかのムードの中に取り込まれていて、ムードの外観を把握するのが難しい。と書いた。(
しかし、わかった。外観を把握できないムードの正体は、「狂気」だった。

それもこれも何も、“手段と目的との関係の逆転”からくる“狂気”。見渡すと、人間の集団を支配しているのは、紛れも無い「狂気」。この狂気から逃れたいと思わない、狂った人々の群れに、なぜいつまで所属せねばならないのだろう。