2011/06/16

革命を想う写真展

革命という語は、それがために人を殺し、それがために人が死に、それがために人民大衆が死に追いやられるにもかかわらず、いっさいの実体を欠く語なのである。
なにをなすべきか。無思慮な熱気にあおられて論戦にまきこまれても益はない。いまだ習慣から革命的と称される行動の目的や手段について、いささかでも明確な概念を有する者はだれもいない。
人間と人間のあいだでは、支配と服従の関係が十全に受容されることはありえず、対策もなくひたすら悪化をたどる不均衡と生みだすのがつねである。…(『自由と社会的抑圧』より)

シモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』を、電車の中で読みながら、道中一人で気分を盛り上げつつ、革命的な写真が展示されるというので、東京都写真美術館へ行く。
目ざす催しは、“ジョセフ・クーデルカ「プラハ1968」”。

「フクシマ」の原発事故発生時においては、テレビでずっとポポポポ~ンが流されたと聞く(私は家にテレビが無いので知らない)が、チェコ事件発生時だと、スメタナの「モルダウ」が延々流れていたそうな。

入り口で配られている美術館のチラシと冊子を見ると、「プラハの春→チェコ事件」についての説明があった。
プラハで1968年から、検閲制度の廃止、言論の自由を柱にした改革、「プラハの春」が始まった。しかし同年8月にはこの改革を弾圧するため、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が、プラハ市内を占領した。いわゆる「チェコ事件」である。
市民一丸となった1週間の激しい抵抗もむなしく、言論や表現、行動の自由が奪われてしまったのだ。この1週間に何が起きたのかを記録した貴重な写真を西側へ持ち出し…

日本人では無理難題と思しき革命の光景。
映画『独立少年合唱団』の先生(香川照之)の、「革命なんて無いんだ!」というセリフを思い出しつつ、写真のプラハの光景を見て、今の日本に思いを馳せる。
それでも、革命の光景は劇的だ。だから私は革命的なものに惹かれる。

1968年8月のプラハ、といえば季節は夏だと思う。しかし動乱の最中の市民が着ているのは、夏服ではなく、むしろ秋冬モノだ。暑苦しいジャケットや長袖の開襟シャツ、ニットのカーディガンを羽織っている人もいる。あそこはそんなに寒い国なのか、地球温暖化前だからだろうか。

ふと見ると、展示されている写真を見て、涙を流しているオッちゃんがいた。その胸のうちを、私はただ推測するだけで、オッちゃんが泣いている理由を知る由もない。

よく、「真実を報道する」という言葉を聞くが、「真実」って、何か。
マスコミの「真実」というのは、きっと、権力者が美しげなものを捏造して、撹乱させて、隠し込んでしまったあたりのことについて、たまたま「真実」という言葉をあてがっただけなのだろう。

真実か否か、真贋の裁量は、結局はそれを見た個人個人に帰せられるのだ。何を見ようと、私は騙されるまい、と思い踏ん張る。

こうして見ると、人間というのはさほど美しくはない。というか、生々しい人間は、むしろ醜い。汚い。
美しいポートレイトというのは、「美しく遺したい」と願う被写体や写真家の努力で美しく仕立て上げるだけで、美しい人間ということが、そもそもウソなのだろう。
正確にいえば、美しくすることもできるのが人間、ということか。

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