2011/07/11

賽の河原で石を積む

思い起こせば、私のこれまでの人生は、賽の河原で石を積む子どものような人生だ。
鬼の背丈の高さまで石を積まねばならないが、積んでも積んでも鬼が崩してしまう。

ひとつ積んでは親のため。石を積む子どもの中で、まだ見ぬ親の顔は、仏のように美化されていることだろう。人間の海馬は自分の都合のいいように、記憶を捏造するらしいから。あまりにも辛い記憶は、うまいこと書き換えられるのだ。
もしかすると鬼は、子どもに真実を知らせたくないがために、小さな手が積んだ石の塔を崩すのかもしれない。「おまえが恋焦がれる親のツラぁ、おまえの思うようなものじゃない」と。

しかし考えてみると、石を積む子どもだって、毎度毎度石を積んで崩されていれば、色々と知恵が働くだろう。おそらく、いつまでも泣いてばかりいるわけではない。崩されるのがわかっているので、手を抜くとか、鬼に崩させない方法を考えつくとか、色々諦めるとか、悟るとか。泣くしか能のない子は、どうしようもない子だ。
思考するって、そういうことだ。苦役から逃れる手っ取り早い方法が、それなのだ。思考する力を高めるために鬼がいると思えば、何となく気は楽になる。