2011/08/07

時には閻魔大王のように

私は、私が負った傷の数を数えて、私に関わった人の罪をカウントする。

縁は切った()が、私には末は博士か大臣か、といった、よくできる立派な姉がいた。
幼い頃からよく苛められた。姉妹でケンカをすると、親は姉も私も両方叱った。しかし、姉は自分ばかりが怒られていると、都合よく解釈して、親に怒られた後で私は更にまた姉にやり込められたものだ。
そして姉は、「お姉ちゃんだからしっかりしなければ」という責任感に、押し潰されそうだった、などと逆に被害者ぶって、悲劇のヒロインに酔い痴れるので、私がお前にどんな仕打ちをされたかなど、それは届かぬ言葉であった。

三島由紀夫の言う「グロテスクな変容()」とは、真理だと思う。
自分に都合の悪い話はスルーするか、上手に忘れること、頭の良い人、要領の良い人というのは、そういう才に長けているものである。

私が大病を患って苦しんだ時も、姉は「私には病気の妹がいて…」と、自分が他人から同情をかうための材料に仕立ててしまっていたから、こちらはたまったものではなかった。

姉は常に、何やら正しそうなことを、誰もが納得しそうな口調で雄弁に語ったが、こいつの言うことだから信用しない、みたいなところが私にはあった。
とにかく、姉は他人にちやほやされたいだけだったのである。
私が姉に苛められたのは、そういった姉の本性を知っている唯一の人間だから、姉はそんな私を無意識のうちで消してしまおうとしていたのかもしれない。

善良な人間が、そんじょそこらにウヨウヨといるはずがない。私はこれまで生きてきて、性根から善良な人間というのは、まだたった3人しか出会っていない。

お勉強ができて優秀なことと、人間の性根の善し悪しは全く関係がない。
姉を通じて私が学んだことは、反省しない、謝罪もしない、すべては時間が水に流すことで、帳尻を合わせて、さも善良な人間のように振舞うだけ、という生き方があるということ。何がしか社会的に認められるステータスを獲得している、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人の多くは、そのようにして生きているはずである。

仲良く関係を良好に保ちたいと思う間柄では、反省や謝罪といった誠意には意味はある。「血は水よりも濃い」なんてそれらしいことも、「取るに足らぬもの」と相手を見なしている間柄では、ケースバイケースなのだ。