2011/08/17

『我が心は石にあらず』

ようやく、昨年、就職担当の先生に薦められた『我が心は石にあらず (1967年)』を読んだ。(
どうして読むのにこれだけ時間がかかったのかというと、「組合の人」である主人公が、理屈っぽく理想と現実のはざまで苦悩する、ドロドロでクソミソの人間模様を描いた物語だからである。もう、この「これが男と女の性(サガ)」と確信しきったような主人公の、小汚いオヤジのねちこい臭い体液の悪臭が、私には生理的に受け付け難い物語だった。
私がある<観念>のゆえに、少青年期の<脱出>の夢を諦めてこの都市に帰ってきたころには、近代的な大企業の中にすら、満足な組合というものはなかった。…(
着実な学問の進歩、他の専門領域との互いを尊重しあう連繋の姿が、自らが怠けていることへの淡い後悔を含みながらも、やはり研究者の一員であってよかったという静かな満足を味わわせてくれた。…
言語が通じあわずに対立したり相互に無理解であったりする障壁も、やがては精密機械がとりのぞくだろう。不健康で過重な労働も、各地域の利害の調整も、機械が人間にかわって処理するようになるだろう。それはほとんど子供っぽい夢だったが、<科学的><科学的>と念仏のようにとなえながら、科学の最先端の成果を全く知らない政治的人間に、教えてやりたいことだった。

現在政治的と称せられているもろもろの部門の管理は、科学者や技師がやるべきなのだ。
などと言っている、これが主人公なのだが、こいつが妻帯者でありながら、同じ組合員でインテリゲンチャの女とエエ仲になって、孕ませてオロオロ苦悩したりしているわけである。

私の場合、かつてから一時の衝動で「それ」ができてしまう人を、性的対象として見なしてこなかったフシがある。
ダンナと付き合っていた頃も、自分から「やりたい」素振りはしなかった。生娘に手をつける責任を一生かけて負うのだ、と固く確かに誓約させたところで、はじめて了承した。それ以後、うちのダンナは男前に責任を果たし続けて、今に至るわけである。
だから、建前ばかりを大切にして、小難しい理屈を雄弁に語りながら、「何となくそんな雰囲気になって、つい」やってしまうインテリゲンチャらの不倫話が、私にはバカにしか見えない。

ただ、こういった大筋の人間模様よりも、細部の戦後間もない頃の労働運動、日本のムラ社会の息苦しさが描かれているところ、また、この主人公が孕ませた女を通して、労働における女性問題についても、核心に近づこうとしているところなどに意義を見出せる物語ではあった。
「国家とか大政翼賛会とかの大組織は、実際に庶民が困窮した時には、何もしてくれないということを人々は肝に銘じたんじゃないのかな。疎開一つするにしも、人々が頼ったのは、宗旨でも思想でもなかった。血縁であり地縁だったでしょう。

家を戦災で焼かれたり食糧に窮したりして逃げてきた人に対して、ともかくも門を杜さずに迎え入れたのは、肉親、兄弟、親類、そして一代前二代前の出身部落だけだった。産業報国会も、在郷軍人会も教会も寺院も、何の頼りにもならなかった。人々ははっきり知っているんですよ。本当に頼りになるのは何か、ということを。…」
かつてはそうだったのかもしれない。しかし、今はどうだろう。
血縁地縁のしがらみが、ただ首を絞めあうだけといった側面もあったことを思うと、このあたりは今は少しずつ変わりつつあるように思う。
この先、血縁地縁からこぼれ出た人々は、信頼の絆をどこに求めていくだろう。かつての社会では認められなかった絆のありようが、昨今、草の根的に息づいていこうとしている気配が、そこはかとなく感じるのは、私だけではなかろうと思うのだが。