2011/08/25

バルザックの『セラフィタ』を読んでいる

バルザックの『セラフィタ』を読んでいる。20年前から読むつもりをしていて、その割りに今まで一度も手に取らなかった。ようやく、これを読む時がきたのだなと。半分読み終えた。

セラフィタ(=セラフィトゥス)は、男か女か天使か怪物か何か、人間を超越した類稀な乙女(青年?)、という設定である。

この物語はタカラヅカの演目にあってもよさそうに思うものの、セラフィタを演じられそうな役者で思い浮かぶのは…、古いけれど天海祐希ぐらいだろうか。役者でいえば若かりし日の美輪明広や池畑慎之介も、イメージ的にはそれに近いけれど、物語の文面に、何度もセラフィタのその容姿について、「どんな画家をもってしても描けない…」みたいなことが、粘着質に繰り返されているから、この肉の世に存在し得ない、もっと、もっと、もっと神々しいカンジなのだろう。
あの人は冷たくて、熱いのです。用心深い真理のように、姿をみせたかと思うと、隠れます。私を魅きつけたかと思うと、拒絶します。生と死をかわるがわる私に与えるのです。…
とはいえ、この「どんな画家をもってしても描けない」セラフィタを、現実の舞台の上に登場させる難しさよりも、話の内容の大半が、バルザックが傾倒した“巨人・スウェーデンボリ”の紹介文だから、実際は「霊的」な免疫の無い人をドン引きさせるだけの物語かもしれない。バルザックが彼の熱烈なファンの伯爵令嬢に、スウェーデンボリを紹介したくてしたくて、たまらんで書かれたのが、200年近い時を経て、私にも伝わってくる。
私が抵抗なくこれを読めたのは、スウェーデンボリの著作『結婚愛の歓び』と『天界と地獄』を、20年前に苦労して読破して、スウェーデンボリ流の独特の語感に慣れていたからだと思う。
一種の「狂い」の才能が無いと、読んで「楽しい」とは思えないかもしれない。

しかしこうして『セラフィタ』を通して、天界の光を乞い求めたくなる、私自身の魂の渇望感に気づかされた。
私の渇望感は、これまでのひとり暮らしの中で習慣化していたハングリーさの名残りで、離れ離れで暮らしていたダンナと再び暮らすようになった最近は、ハングリーである必要がなくなった。
今、欲しいものなど特に無いこの充足感が、逆に私の動きを鈍くしてしまう。人生がこれほど虫のいい話なわけがないことは、経験上わかる。
何かの出来事でダンナを失う恐怖が、今の私にはハンパない。それ故に、私の魂は天界の光を渇望してみせるのだと思う。


もしも天界があって、天使がいるなら、ただ幸せしか知らないような天使など、存在しないだろう。語り得ない人の苦しみを、察することができるほどの知恵に恵まれて、この生を生ききることができるような、天使となるべき人間が、この世界にはどの程度存在するのだろうか、しないのだろうかと、物語の行間で、ふと思い巡らす。