2011/10/27

信仰は「試される」らしい

私は葬式仏教の家に生まれ、無宗教だが、若い時分に読んだスウェーデンボリが刻印されている。(
スウェーデンボリの思想が、私を筋道立てた。
「神」や「あの世」や「魂」を思う時、どうしてもスウェーデンボリの書き記した世界から出発しなければ、理解ができない。逆に、そこから出発することで、様々な宗教についても色々と理解することができる。仏教や神道を理解する上でもそうだった。
スウェーデンボリを通したお陰で、かつてブラジル荘()で、熱心なカトリックだという、フェルナンド(仮)とも、かなり宗教談義で盛り上がることができた。

私が死後、霊界に行けば、きっと「異邦人」として、霊界の北の方に住むのだと思われる。
そしてそこで、再びうちのダンナに出会うのである。
ダンナは、主が私に与えた、最高の伴侶なのである。
スウェーデンボリの『結婚愛の歓び』を読んで、それがわかる私にしてみれば、貞潔であろうとするのは(「純潔」という言葉はどうも好きではない)、当たり前、ということで。

神とは唯一神、ヤハウェやアッラーなどと呼ばれる、あの「主」である。

神の世界には、無も有もある。
無は無であるが故に何も生まないが、有は無をも生む。
神は無い、あの世は無い、という生き方もあるだろう。そうして、悪魔に魂を売ったと酔い痴れて生きる選択肢もあるだろう。
人は、神の世界も、神の無い世界も、どちらでも選択できる。それほどに、死後の世界は広大無辺だという。

神の法の囲いの中にいることを選ぶか、法を破り捨てて外に出れば、神もあの世も無い世界もあるだろう。

私は、神の囲いの中にいることを選ぶ方の人である。

あらゆる善は、神からしか発しない。人は、自ら何一つ善を行うことはできない。
神を受け入れた分だけ、人は善を行えるという。
神から人間に流れ入ることで行われる善以外の善は、善とは言わない、と。
したがって、神もあの世も無い世界を選んだ者は、善は行えない。
私が偶々、何かいいことをした時、その時は神が私にそれを成すことを許された、というか、神の善がうまいこと私に流れ入ったのだと。…

こういった、かの水木しげるも影響されたというスウェーデンボリの世界が刻印されている私にとって、神も霊界も当然なのである。
どう考えても、悪魔に魂を売るのは、先々を考えると、得ではない。
お陰で、俗物やコミュニスト風の無神論者が、どれだけ神は無い、あの世は無いと、もっともらしく説教を垂れたり、享楽的な生き様を示しても、それも天界の光を拒んで狂気を選んだ手合いだと、私は理解するのである。残念ながら。