2012/01/22

「(人身取引という)この問題をきちんと認識することが大切」?

うちのダンナは、屁に音階をつけられる。また、タイミングよく屁をこくことができる。よく自慢げに「アナルの括約筋を鍛えてある」と言う。
そして私は、逆に「屁をしない女」である(笑)。家でも外でも生活の中において、放屁などなしえない、という前提である。一応。

日本における人身取引とは、すかした屁のようなものである。
せめて屁に音がついていれば、「おまえ今屁こいたやろ」と認識しやすいが、疑わしきを罰することもできず、「何かクサいかも」でうやむやになる。また鼻が利かないなら、臭いがあることすらわからないので、気に留められることもない。
日本における人身取引とは、私における屁のありようと似ている。
先頃、人身取引の防止を目的とした普及啓発のセミナー()を覗いて、私はそんな感想を抱いた。

日本における人身取引の大半が性搾取なのだそうな。(ちなみに「日本の中では労働搾取はなされていない認識が前提」ということで、先生は話をされた。この認識にも、突っ込みどころは多そうだ。)

「被害当事者を人間としてみているかどうか、一人の人間として見ることができるセンシティヴィティが必要」と、思い込みや先入観に支配された人々の意識を、そこまで進化させることが果たしてできるだろうか。また、どうしても進化させなければならないとしたら、どんな手立てがあるだろうか。

私自身は、日本においてはトップダウンでやらないなら、この問題は決して解決を見ないと思っている。すかした屁のように、揉み消せば済むような被害者や弱者の声など、一体誰が耳を傾けようか。
その点、「国際的には(人身取引を無くそうという)そういう流れ」ということで、「国際的な流れ」とはある意味トップダウンと言えなくはない。

しかし、日本では人身取引についての啓蒙が普及せず、更に縦割り文化の弊害のため、それに関わる行政やNPO・NGOなどの各団体の連携がとりづらく、大勢の被害当事者の受け入れ国でありながら、国際的に見ても立ち遅れているという。(

その原因を人々の「無関心」という言葉で先生が説明するのも、最近、もしかしたら違うんじゃないか、という気が、私はしている。「無関心」という言葉自体が、掴みどころのない、よくわからない、玉虫色なのだ。

「(人身取引という)この問題をきちんと認識することが大切」だと言われても、そもそも人身取引の問題は、論理的に統制するのが難しい。
「児童ポルノ」「性の商品化」と、見慣れたそんな言葉がただ躍るだけの日本で、それがなぜ問題なのか、ダメなのか、いのちが何かを知らない人々に対して、ここの説明ができないなら、認識させようもないのだ。
「無関心」の根っこの素地の正体を、多くの人にも分かるように可視化、ないし言語化して伝えられないと、「じゃあ逆に、どうやって関心持てばいいのヨ」と言われて、返せないなら、尚人々の「無関心」を増長させる。「無関心」の部分はガラ明きで隙だらけだ。

そうしたままで、ただ単に良心に訴える方法のみでは、関心を持つ人がナメられるだけなのだ。ナメられるのはナメられるようなヤツが悪い、ということになる。
この問題に関心を持つ人が、つけ入られる隙だらけでナメられては、結局、「歴史的にみて普遍的な世の中の有り様」と結論づけられて、丸くおさまったことにされてしまう。
解決策は「君子危うきに寄らず」と、腫れ物として触れられることなく、適当に法律を整備した体でごまかして、そのままのさばらせて仕舞い、になるだろう。かつての公娼制廃止や売春防止法のように。(
そこを超える術を、この先編み出していかなければならないだろう。

と、つらつらそんなことを感じていた。

※関連過去記事
 人身取引三昧  (2011年11月9日)