2012/02/22

『今はまだ、名前のない性被害があります』という冊子を手にとって思う


男女共同参画社会とは何かというと、究極的には、男女共に満足のいく性生活が実現された社会のことだろう、と私は思う者である。
私はそれこそ真っ当な全ての人間が、満足のいく性生活を実現すべきと、般若心経の「ぎゃーていぎゃーてい…」の真言を込めて願う者である。

しかし、大方の「正しくない」性情報を見ていると、コミュニケーション不全で、マトモに満足のいくセックスをしたことがない人が大多数を占めるのではないか、と思う。だから、世の大言壮語のセックス自慢の殆どがハッタリだろう、と私は見ている。

ポルノとは、わいせつ物や性表現一般のことではなく、女性や子ども(時に男性)を見世物的ないし虐待的に扱う性的にあからさまな描写物(実写および非実写)を指す言葉です。

私は、性情報には「いのち」との紐付けが必要ではないか、と思う。

ポルノであれエロ画であれ、目にしたその性情報を、「いのち」に関わる言葉を唱えながら観賞する。例えば見ながら「守る」「慈しむ」「傷つく」「死ぬ」…など他、「いのち」の尊厳を守る上で似つかわしい紐付けの言葉が、自然に見出されるだろうか。私は性情報の「正しい・正しくない」を、そのようにして判断する。だから大半の性情報は「いのち」と紐付けできないか、しづらいものだということで、間違っているものという認識である。

そのためには、根本的に「いのち」とは何か、「いのち」との紐付けがなぜ必要なのかが、誰でも理解し共有できるぐらい平易に伝えられなければならない。この冊子ではそこが抜け落ちている。
だから「人権的性教育云々」というお題目の中身がガサガサで、そのための胡散臭さを私などは感じてしまう。もっともらしいが、何だかな、という「鼻息の荒い女性人権団体のヒステリー」で棄ておかれかねない、根底の論点がすり替えられてしまっているような、腑に落ちなさがある。

冊子の内容が、法や制度に関わることだから、「わいせつ」「性的人権」などと胡散臭い言葉が濫用されるのは致し方がないが、思うに、賢そうな「正しい」ことだけを言っていては、いかんのだ。「正しさ」が即「強さ」であったためしがない。「正しさ」は手段に過ぎないから出し方、見せ方をよくよく計らなければ。

まぁ、「誤った性情報の氾濫のために性的片輪が増殖するからイカンのだ」ぐらい、ざっくりコンパクトに言ってしまった方が、イカレポンチのバラケツあたりにでも解かりやすかろうと、私ならば思うのだ。

しかし、これを手に取るのが、正に傷ついた被害者ならば、心強くなれるだろうと思う。これはきっと、その人たちのために書き送られたものと思う。確かに、「具体的なポルノ被害に焦点をあてた人権的立法」というのは、要るだろう。まだこの国が、国としての体を成しているならば。

そして、世の中のウマい話に裏が無いはずはないので、ウマいポルノがどのように作られているのか、その裏を垣間見て知ることで、それが被害者を生まずしては成り立たないという実態も、広く世に知らしめる手がかりにもなるだろう。

機会があれば、是非手にとってご覧になって、考えてみましょう。