2012/03/07

3.11を前に

犠牲の観念の正当性が失われてしまえば、犠牲者のヒロイズムになんらの正当化も見出すことはできなくなる。

すべての犠牲が無に帰してしまう。そうした恐ろしい予感にとらえられたプラトーノフを新たに支配しはじめたのは、それ自体が唯一絶対の価値であるユートピアの建設がおのずと生む、あるいはそれがおのずから強いる「全体的犠牲」という観念である。

そしてその「犠牲」的観念の内実を規定していたのが、集団化は否定するものの、反体制派ないし反ユートピア主義者ではないという、曖昧にしてアンビバレンツな立場であった。プラートノフの脳裏からは、すでに一切の幻想が消えていた。

熱狂者は、熱狂を失ったあとも、そのほてりとともに生きており、冷笑によってソビエト社会のプロセスを見つめることはできなかったということである。

(亀山郁夫『終末と革命のロシア・ルネサンス』より「孤児たちのユートピア--プラトーノフと革命」)

現在の私の心境は、上の反革命的作家プラトーノフのようなカンジだ。
3.11から一年が経とうとしているが、あれ以前から今尚、一貫して変わることが無い思いがある。

核・原発関連の思い(2011年7月3日)

そして、やはり、

反原発・脱原発側が、金持ちでなく、貧乏臭かったことが、運の尽きだったのだ。

震災のガレキ広域処理によく使われる「痛みを分かち合う」というの、あれ、何故「かくかくしかじか、全て金の問題なので、ガレキを広域処理します」と、ちゃんと説明できないのだろう。
私が生まれたこの国は、偽善を善と思う、正しさの間違った国らしく、ふいに、マトモに相手にしてはならないキチガイを見ている気分になる。

そして何故、この度の被災者の痛みだけが分かち合われようとするのか。3.11以前から、分かち合われなければならない痛みを抱えて生きる人々が、そこここにいたにも関わらず。大勢いる被災者の中にも、いきなり痛みを分かち合われることへの戸惑いと疑問を抱く人も、それなりにいるだろうことは想像に難くない。

同情は、誰にも気づかれない相手の痛みや苦しみの部分に対して、それに気づいた時にすれば有効だろうが、四六時中優位な立ち居地から憐れむのは、どう考えても違うだろう、私なんて3.11以前から身寄り無く貧しい孤独な日々だったというに、3.11の被災者で、誰か3.11以前に私に深い同情を寄せて慰めた人があっただろうか、いや、無かった。
だから、私にはおかしな同情心はない。

自分に「近い人」の痛みは分かち合えるが、「遠い人」の痛みなど、分かとうにも分かち合えるはずがない。その「近い・遠い」は、あくまで心の距離のことであって、地球の裏側の人でも、近い人は近いし、目の前の人であっても、遠い人は遠い。
痛みの分かち合いというのは、割りにそんなところがあるから、目に見える現実の話としての「痛みの分かち合い」ということが、ヘンな話なのだ。

だから正直に「すべて金と利権の問題です」と明らかにする方が、まだ痛みの分かち合いのはずなのだが、偽善者というのは、案外というかやはり、そういうことがわからない。

偽善者による偽善を愛する集団とは、喩えるなら、鼻の穴から大きなハナクソが見えている人々同士で、相手の姿を褒めあうようなもので、自分自身にはハナクソなど無いものと思っており、見えている相手のハナクソを気にしつつも、決してそれについては触れない。
ハナクソがどういったものであるのかを知りつつも、ハナクソについては語らないことを暗黙の了解としているらしい。

そんなものだと思う。見苦しい、あまりにも。
私は偽善を善とは思わない。偽善は偽善であって、善とは違うと思っている。相手に指摘され、または相手に教えてやることで、お互いに鼻の穴を清浄に保つことのできる集団の方が、善いと考える。

しかし、自分にとって不都合な事柄から目を逸らし続ける臆病さは、たとえ天変地異でも、千代に八千代に苔の生すまで変わることはないのだ、偽善は善のままなのだと、眩暈。
こういった狂気の中にあっても、尚生きる意味、いのちの意味を見出し続ける勇気を持たねば、生きてはいけないわけだから、日々を送るのは難儀なことだ。