2012/04/22

「生きる意欲」と「死ぬ勇気」

ラジオで生命倫理の話などを聴いていると、最近は「患者学」なんて学問領域もあるようで。
それによると、病気における自然治癒力と自己治癒力は違うらしい。
放っといても自然に治るのは自然治癒力で、自己治癒力というのは、治る気がある、治ってみせる、生きる気があるという、前向きな意識から、内的統制力を高めることで治癒するものとか。

医師の崇高な職業倫理「ヒポクラテスの誓い」についても、あんなもんがあるから、バカ医師の既得権益化でグダグダになるんだという向きもあるらしい。

ほか、QOL(=Quality of Life)かSOL(=Sanctity of Life)か、どっちも「どこで線引きするかハッキリしてくれ」みたいな、突っ込んだ話もあり。
「まだ生きられたかもしれない命、自分が殺したのでは」という罪悪感を抱かないですむために、その線引きが必要になってくるのだろうが、しかし、そんな罪悪感をなぜ抱く必要があるのだろう。
私には世の中のことがわからない。

私がよくわからないものの中に、カテーテルや経管栄養がある。
それをしてまで生きる、という意味が、これまでよくわからなかった。
しかし言い出すと、ペースメーカーや酸素ボンベもその部類に入るのかもしれない。多分、私の中の「あり・なし」の区切りは、自分の口から食事を摂れるか否かで観念づけていたと思う。
だから、自力で食事を摂れないなら、死ぬのはやむを得ない。と思っていた。

じゃあ、口から栄養を摂取できて、排泄がどうか。自力で排泄できるか、人工肛門は、それは「あり」か「なし」か。…

と、突き詰めていくが、私が勝手に「なし」としている状態で生きている人々の「生きる意欲」は、そんな私の区別など凌駕してしまう。

「生きる意欲」。生命とは、素晴らしいかもしれないが、恐ろしい、怪物でもある。
「生きる意欲」は、有無を言わせぬ、他が犯すべからざる力かと思う。

しかし、こちらが関わる以上は、その人自身の前向きな「生きる意欲」がないと、関わるこちらのエネルギーの浪費が計り知れない。

この社会では、特段、人の役に立とうとか、社会に役立つ人材になろうなどと、鼻息を荒くしてシャカリキになる必要は無く、生きる前向きな意欲があって、ただ存在するだけでOKなのだろうと知る。意欲のある存在は、それだけで迷惑にならない。

そうなると、「生きる意欲」無しに何故か存在している、という人たちが不可解だ。

「生きる意欲」があるとは、言い換えれば「死ぬ勇気が無い」のかもしれない。
自殺する人に向かって、よく「死ぬ勇気があるなら、生きることだってできたはず」と言われるが、そうかもしれないが、そうでないかもしれない。
「死ぬ勇気」に直結するだけの短絡さが無いなら、それは「生きる意欲」に繋がるというだけのことかもしれない。

あれこれ、考えさせてくれる。

形のくずれてしまった生。そこでは、生きながらえることだけが、ただひとつの執着となる。

…不幸な人たちは、生きている方が死ぬよりも望ましいとは全然思えないときでも、何ものにもまして、生きることが楽しいような気がするのである。

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄