2012/05/21

「テマヒマ」と「侘び・寂び」

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『テマヒマ展〈東北の食と住〉』()に行ってきた。
「侘び・寂び」と言わずに「テマヒマ」と言ったところが妙味なのだろう、と思われる展示だった。

「侘び・寂び」の概念にはクオリティーの高さが含まれているが、質素かつ簡素なモノでありながら高品質な「侘び・寂び」を感じさせるモノとは、そのモノが出来上がる過程のテマヒマが見出されるもので、昨今長らくの風潮では、この「テマヒマの過程」の部分がおろそかになっていたと思う。
だから、「侘び・寂び」に対する感受性も、この国独特のものでありながら、退化しつつあったところだったのだろう。

こういった企画展が開かれるということは、これからは、この「テマヒマの過程」が、多くの人に啓蒙されていく時代が来るのだろうか。もしそうだとすると、このセンシティブな過程を感じ取ることができないほどに感性の衰えたこの社会であっても、まだ希望が全て失われたわけではない、かもしれない。

本来目的のための手段が、手段自体が目的化するということについて、シモーヌ・ヴェイユは“手段と目的との関係の逆転”と呼び、それを“狂気”だと言った。(
それもそうなのだが、「目的(=モノが出来あがる)」のための「手段(=過程)」の部分の不断の努力が欠落しても、それはそれで“狂気”だろうと思うのだ。その不断の努力こそが、おそらく人間を人間たらしめる理性なのだろうから、それが失われるなら、それは文字通り“狂気”に違いなかろう。

しかも、この「手段(=過程)」は、「侘び・寂び」を伝える茶の湯や生け花の、ムダの無い段取り作法に表されているように、お茶を飲む、花を生けるという目的までの過程の形式化した約束事である、不断の努力の行為となって、はじめて「侘び・寂び」の味わいに通じる「テマヒマ」と呼べるようになる。

と、きっと美学のやまった()なら、そういうカンジに言ったろうか、などと思いつつ。

「侘び・寂び」に関して、過去のブログ記事から高校時代の回想を。

 
古典芸能の授業というものがあった。
校外学習で歌舞伎の舞台なども観に行った。
狂言と、文楽・浄瑠璃について、専門的なことを学んだ…はずだ。私以外は。

もちろん、学校に行くだけで精一杯の私にとって、この二つの授業中は、殆ど睡眠時間でしかなかった。
狂言の授業など、立って実際に「演る」授業だったにも関わらす、それで寝ている私は、どこまでふてぶてしい生徒だったのか。…いや、狂言独特の節回しが睡魔を誘ったので、仕方無かったのだ。
多分、狂言の先生は見て見ぬふりをしていてくれた。

文楽の先生など、
「いつか国語教師で食っていけなくなったら、文化サークルかなんかで、文楽の講師かなんかをやりたい」
などと、切ない夢を初っ端に語って聞かせた。
しかもこの先生は、何も言わず、授業中にどこまでも私を寝かしつけてくれた。
…お陰で睡眠学習がはかどった。

そんな私のような者はともかく、中には卒業後も熱心に狂言や、近松門左衛門の研究や勉強に取り組んだ子らもいる。
寝ていた私でさえ、そこはかとなく古典芸能の楽しみ方が身に付いたとすると、これら無駄な授業ではなかったと思う。
さかのぼりの青春・睡眠学習
 
古典芸能って、ホントに難しいな…、と思ったのは。

浄瑠璃の三味線の太夫が、氷水をはった桶に手を入れて、指の感覚を無くして稽古を続けた、とか。
そうまでしても、

今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…

の「チン♪」の音が、なかなかよくならない。
「ただ『チン』だけでは何の意味もなく、『チンウ』と“うなり”が活きてこそ…、云々」ということなのだそうだが。
悩み続けたこの太夫は、ある静かな夜、井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という音を耳にして、思わず「これだ」と呟いたとか。
井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という、一瞬の偶然が、太夫のその後の「チン♪」を完成に導いたらしい。

そこで文楽の先生が、「さぁ、聴き比べてみましょう!」と、問題の「チン♪」を録音したカセットを皆に聴かせてくれた。

今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…

先生は何度も巻き戻して聴かせてくれた。しかし。
…はぁ?
私には全く、この「チン♪」の何がどうなのか、理解できなかった。


もしかすると、この違いがわかる、センシティブな感覚にまで到達することが、日本伝統文化の切なる願いなのかもしれない。
そして、このセンシティブな感覚を日々の暮らしの中にまで拡大すると、多分、人生はもの凄いことになるだろう、と後年になって思った。
ややもすると、この「チン♪」のような微細さは、日々の中で見落としがちになる。
それでは、多分、幸せも見落とすことになると思う。…
さかのぼりの青春・妙味の「チン♪」

この話が『テマヒマ展〈東北の食と住〉』に通じるのは、 太夫が、氷水をはった桶に手を入れて、指の感覚を無くして稽古を続けた あたりが「テマヒマ」であって、その過程を経たからこそ「チン♪」は「チンウ」に完成された、と。
こういうの、「細かすぎてわからない話」と両断してケリをつけるだけでは、もったいない話ということで。