2012/06/14

働くのは癪に障る

あゝ、持病の癪が、大変だ。

嫌なことを喜んでやれる変態と違って、私はしたいことだけをして過ごしたいので、したくもない賃労働をすることは、本当に癪に障る。
賃労働のために、私の人生の時間の多くは無駄になった。寿命も縮んでいるだろう。星占いで大体予想できる私の余命は、長くてせいぜいあと二十年ほど。それ以上生きていたら逆に大笑いできるのだが、まぁ、もしも幾つかの前世があったとして、それでも今生が一番長生きだろうとは思う。
残り余命二十年と考えて、楽しくやっていこうや、とダンナとはそう決めたものの。

何のために生れてきたのか。
今思いつくのは、うちのダンナに出会うため。それ以上も以下もない人生だとしても、割りに贅沢な方ではなかろうか。どこを探しても、私にとっては恐らく、ダンナのいるところだけが私の居心地のいい場所だろうと思う。

金、金の世の中で福祉と言わず、福祉らしきものから日銭を掬い上げて生業する日々だが、私の辛抱がきくのは、ダンナが傍にいるからである。もしもダンナが逝けば、ただ食い繋ぐためだけにこんな仕事は続けられない。私は恐らく、この仕事を「尊い仕事」と持ち上げる人たちと、お近づきになれないほどに別の違う地平線上にいる。

私にとって汚くないのは、私自身とダンナだけなのである。
私はダンナを愛するようには他を愛することはできないが、他は他で、私とダンナにおける関係のような、清らかな関係があるのだろう。それで「すべての存在が清浄」だと言えるようになる。
理趣教のいうところの「清浄句是菩薩…云々」というのを、私はそんな風に理解しているのだけれど。

相手の本質にまで近づかなければ、なかなか「清浄なもの」とは感じられないわけで、大方出会う人間は、決して清浄なものではなく、臭気を放つ醜いものである。だからなかなか「人間が好き」などとは到底思えないわけで、介護は売春より楽だと思って選んだ仕事だが、感情労働は本当に嫌な仕事だ。

昔ヘルパーの教本を読んだ時に感じた、絵に描いた餅のような、福祉らしきものの薄気味悪さを思い出す。何故、時に現場の人間は、「やさしさ」と称して、ああも自分に厳しくして他人をあれほどまでに甘やかすことができるのか、不可解だ。あのテの「やさしさ」は、百害あって一利無しだと、私などは思うところなんだけれど。

福祉の人手不足とよく言うが、福祉という仕事には魅力がないからなのは、分かりきったことだろう。それに、この社会の福祉は、強いものが享受する特権なので、本当の意味での福祉ではないわけだし。

捕食しあうような異なる種類の動物を、餌をそれぞれ与えながら放し飼いにしてると、襲うことなくみな仲良く暮らすんだそうな。そういう状態の社会でないなら、本当の意味での福祉は成立しないのだろう、と私は思っているが。

ステレオタイプの念仏で説かれた「いのちの尊さ」だの「かけがえのないいのち」だのは、とうの昔に真意からかけ離れてしまった。そのために「いのち」がわからない連中の生きる手助けをしてやる、いのちの現場の馬鹿馬鹿しさたるや。そりゃ「生きることは無意味」にもなる。

まずはともかく、しばしばの発作はやむを得ないとして、癪に障りのない方法を工夫せねばなるまい。