2012/06/25

久しぶりにでんぐり返りと逆立ちをしてみた

家の中で、久しぶりにでんぐり返りと逆立ちをしてみた。
三半規管や肩凝りに効きそう。この歳になると、脊損やなんかに気をつけてやらねばとは思うが。
子供の頃はよくやっていた。身体が大きくなって、部屋では手狭になり、そういうことをしなくなって、それであれこれと身体に不調を感じるようになるのだろう。


何を目指せばいいのかよくわからない世の中で、キャーキャー楽しそうな話題がばら撒かれ、あゝ、こういう話題を作る仕事をしている人も、もう必死なんだな、などと、自然と冷ややかな眼差しで眺めるのである。


しかし、みんなすごいな。金持ってるな。私は本当に貧乏な人か、貧乏なフリをして責められないように振舞っている人なのか、すごくよくわかる。
ジジババの世話は「介護の人」に任せて、親族郎党、いつ死ぬか、もう死ぬか、まだ死なない、いつになったら…と、手ぐすねしてジジババが死ぬのを待っている。そんな連中ばっかり。「介護の人」は大して貰えないのに。

こういう輩どもの役に立つのは、癪に障るのでよろしくない。
ヘンに甘やかし過ぎてヘンに冷た過ぎる世の中。なぜ貧乏人が、生活レベルを落とせないエセ貧乏人の役に立ってあげなければならないのか。

年寄りを見ていると、長生きはしたくないと、つくづく思う。
60代で逝った人を、「まだ若いのに」と言う。それは枕詞か常套句かなんかで、特に意味は無いんだろうけれど、いのちを生き切った人生に対しては失礼だろうとは、私だけが感じることなのだろうか。

いのちが何だかわからない人びとのいのちの選択は、哂っちゃいけないが、哂える。哂えるが、決して楽しくはない。長生きのために金を稼いで貯めるという目的は、既に私の中では流行らない。ムダに長生きをすれば、いつまでもいつまでも、見たくないものを見て過ごさなくてはならない。

長生きをするなら、他人の生気を吸い取るのではなく、生気を与えられる人間でなければ、不幸を撒き散らすだけだ。

「オレは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ」
と、それまで、ただ真面目に働いて生きてきただけだという利用者が、障碍を抱えてそう言うが、「さあ、わかりません」。
ひとつ何が悪いといえば、働いていることを理由に、他のこと、世の中の出来事に関心を持たなかったことではないかと、思うが、言わない。人それぞれ事情もあっただろうから。

「金を貰ってやる仕事はプロの仕事」などと思い込んで、ヘンにプロ酔いしてしまう「仕事」。専門的とか職人気質と言えば聞こえはいいが、「プロだから」と専門に固執して、周りを見渡す余裕が無くなって、大事な情報にコミットできずに情弱に成り果てる。
情報にコミットできない余裕の無さ、それは心の貧しさでもあるだろう。

「真面目に働いて生きてきた」ことに、免罪符になるほどの価値は無い。特に、この先の世の中はもっとそうなる。
それが仕事だと言われれば、なんでもやろうとするように訓致され、築き上げられたこの社会の、結果が今味わえるだけなのではなかろうか。

 
神が完全に欠落したものとしての世界は神そのものである。
善とまったく異なるものとしての必然は善そのものである。
それゆえ不幸におけるあらゆる慰めは愛と真理を遠ざける。
これぞ神秘のなかの神秘である。この神秘にふれるなら安心してよい。(
 
形のくずれてしまった生。そこでは、生きながらえることだけが、ただひとつの執着となる。

…不幸な人たちは、生きている方が死ぬよりも望ましいとは全然思えないときでも、何ものにもまして、生きることが楽しいような気がするのである。(