2012/06/27

変幻自在ということ

将来の夢。
成りたい自分の姿を内に描くのは、大事なことだが、この歳になると、いくつかの思いを遂げて、成りたい自分の姿など通り越してしまっている。

この後は、自分の魂の姿をこそ、思い描かねばならないと、この頃はことさら強く感じるようになった。
老いの兆候だろう。魂の世界に行く準備を、自然と促されているような。

と、私が言えば、「あなたの歳で、そういうのはまだ早い」などと、そんな風に言われなければならない風潮があるから、表で出会う人々には私は言わないけれど、将来のビジョンを描くことや、欲求の姿を明確にする意志をがあるということは、単に成り行きまかせに生きるよりも、迷いや虚を突かれることを避けるために、本当は大事なことだと思っている。
喩えるなら、自分自身をチューニングできるようにすることで、本来出したい音を、きちんと出せるようにしていくということ。

そうして、魂の世界での私の姿とは、どんなものだろうか。
針子はあちらでも針子のままかもしれず、女中は女中のまま、女郎は女郎のまま、大工は大工のまま、漁師は漁師のまま、写真家は写真家のまま、踊り子は踊り子のまま。
役者は役者のまま、サラリーマンはサラリーマンのまま、政治家は政治家のまま、旅人は旅人のまま、…と何ら変わることがない魂の営みが、あちらでもあるのかもしれない。そうでありたい願望が永遠ならば。

永遠に同じままというのは、飽き性の私には、尻の据わりが悪そうだ。
私は、変幻自在や融通無碍といった姿に憧れる。私がモグリのフリーターで30回も転職してきたのも、そういった憧れが滅せない因縁によるのかもしれない。


前に本で読んだ、八幡神の姿を伝える説話が、心に残っている。
昔、醜い鍛冶屋のジさまが鳥に変化(へんげ)する姿を見た神主が、「このジさまは凄い何かだ!」と思ってジさまに弟子入りして、変化の瞬間を今か、今かと待ち続けて三年。師匠がいつまで経っても醜いジさまのままなので、どうしたもんだかと、「本当の姿を見せてください」とお願いしてみると、ジさまは小さな童子の姿に変化して、
「わらわはホンダワケ(八幡神)だじょ」
と、愛くるしく神々しく自己紹介してみせたとか。

上の話のオリジナルが私の手元に無く、私の心に残る印象だけが頼りで、正確に伝える話ではないが、大体そんなカンジの話だった。

あちらの世界には、きっと変化の仕方を指導する役割の人もいるのだと思う。

私はあくまで私でありながら、風になり、岩になり、木になり、花になり、猫になり、鳥になり、時には妖怪の姿で、時には天女の姿で…、憧れの姿を全て内包して、その全てに変幻自在にたゆとう姿。
それは肉の世では決して成し得ない夢だからこそ、魂の姿になったその時には叶えられるだろう。
私は将来の夢を、そんな風に思い描いている。

日常の苦役から解放される瞬間は、バネの力で飛んでいってしまうような、とてつもない開放感がある。
知らずに産み落とされて、知らぬ間に負債を負わされて、生きねばならないと急き立てられて、そうして死の瞬間、魂の世界に旅立つ時の解放感は、いかばかりか。

ちなみに、うちのダンナは「鳥ならば猛禽類に変化したい」「競争が激しそうなところだから、海の中の生き物は嫌」だそうで。未だ見ぬ宇宙人なんかでもいいらしい。
たとえ変幻自在でも、それぞれ変化するものに、きっと得て不得手はあるんだろう。

なりたい自分の姿と手作りのヅラについて(2010年2月18日)