2012/07/05

あらゆる人の人生が「生き様」だと思う

アテネの滅亡は、アテネの国益に密着していない同盟国を助けたことにある

米国の軍事思想の根幹にあるという、トゥキュディデスの『戦史』からの教訓。米国安全保障関係者はほぼすべてこの教訓を学んでいると、『不愉快な現実』()にあった。

こういうのは、個人個人のつながりにも当てはまる。特に仕事や金が絡むことになると、自分に益が無いなら、人であれ何であれ、容赦なく切り捨てる。昆虫だとすれば、片利共生ないし相利共生できる種との出会いを求めるわけで、寄生されるのは受けつけませんよ、という、分かりやすい話。

私を取り囲む社会は、人の好さそうな薄気味悪い笑みが絶えないが、その裏を返せば現実は、まぁそんなもんだ。貧しい私のような者は、頻繁に切り捨てられるものである。

いっそ粒が大きいより、人目にわからないくらい、限りなく小さい方がいい。
すり抜け、こぼれ落ち、掴み取れない、そういうものでありたい。
私の夢や希望といった、生きる糧になる美しいものは、その限りなく小さなものに託して、人目から隠しこんでしまおう。
そうであれば、永遠の中で、私はこの憂き世よりも強い者になる。

悪いシステムの役にたつのは、悪に加担することなので、他人を愚民呼ばわりする愚民のためのシステムの構成に役立ってはいけないと思う。
しかし、問題のそのシステムすら、改められるとすれば私の老いた後、もしくは死後のことだろう。

このシステムの中で、私のような者は役に立たない無能な者なので、直に淘汰されていくわけだが、そういうことを言うと、「無能だなんて、そんなことは確実性のないことだ」などと、一生懸命慰めようとしているのか、それらしいことを言おうとする人もおられるのだが、そう仰るあなた様は、この怪体なシステムに違和感なく乗っていられるということで、有能なんだからいいんじゃないか、と。

何しろ、見ていると、「生きるか死ぬか」は「有能か無能か」に尽きるような話ばかりが横行している。「有能か無能か」とは、「役に立つか立たないか」ということでもあるのだろう。しかし、役に立つものを死なせてしまえば、それは役に立たない無能なものになる。とどのつまりは「生きるか死ぬか」で、無能が有能を抹殺すれば、無能であっても有能になれるという。

ところで、なぜ、このシステムの中にいて、逃げ場が他に無い、自殺した人びとが悪いものか、理解できない。
明らかにこの悪いシステムに加担して、おもしろおかしくふざけている有能なのが悪い、にも関わらず。
そう思う私は既に、陳腐化した年寄りの範疇なのだろうな。

あらゆる人の人生が「生き様」だと思う。
「生き方」がわかるという傲慢な言い草を、私は理解しない。

この人類の苗床そのものの悪質さゆえに、地はうち捨てられ、天は地から遠ざかるだろう。
それは、既にはじまっていることだから、もうどうしようもないと思う。