2012/07/11

義憤を無力化する「まともな考え」を持たない人々は、人としてどうなのか、ということについて

罪を犯す人の思考は短絡的だと、よく聞くが、責任の所在が不明な、人間の集団が犯す罪も短絡的なのだ。
罪を犯す集団とは、「まともな考え」を持たない人々の群れだと思われる。
義憤を無力化する、「まともな考え」を持たない人々は、人としてどうなのか、ということについてちょっと考えた。

「まともな考え」というのが根本に無い人が、実は案外に多い。「まともな考え」は、正しくても通用しない。こんな時、まともな人間はどうすべきなのだろう。このどうすべきかを考えることが「戦略を練る」ということだろう。さて。

まともな考えを持たない人は、何故か、まともに考えることが億劫なようで、とりあえず手近なところで納得して満足を得るようだ。それが間違っていようと、短絡的に納得できる答えにすがりつくらしい。例えば、
「それは人としてどうか」→「それが人ってもんだ」→納得
というのが短絡的な道筋だろうか。そのように納得しないようにするならば、
「それは人としてどうか」→「それが人ってもんだ」→「それは人としてどうか」→?
この「?」の先を、まともな考えを持たない人が答える場合、
「それは人としてどうか」→「それが人ってもんだ」→「それは人としてどうか」→「だって仕方ない」→納得
みたいな。

そういうムードに流され易い風土では、一時掛け声だけがやたら流行ったイノベーションも興ることなく、千代に八千代に苔の生すまで、「だって仕方ない」カンジなんだろう。

こういった風土に欠けているのは、「人はどうあるべきか」のビジョンで、更に一番欠けているのは「人」だろう。そのビジョンで描き出すべき人の画が、クズすぎる、あたりが問題だろうか、と。
その風土においては、
「人=クズ」→納得
でOKでしょうか、どうでしょうか。
ということを、主に大津の事件で、加害者側とそれを擁護する市教委なんかを眺めた時に、考えさせられた。