2012/07/16

お国に尽くすこと

「お国のために」「世のため人のため」に心を尽くして働く人たちの、せめて足手まといにならないようにしていよう、などとすることが、私のような者の場合の「お国のために」「世のため人のため」だったりするのだが。

戦前の教育を受けて育った利用者と関わっていると、昨今はあまり良い印象を持たれない「お国のために」という考えは、実は悪くないな、いや、むしろ良いことではないか、と感じることがある。

国のため、みんなの幸せのために、オレは頑張って仕事してきたんだ、と。
だから「みんなが幸せだと、オレ幸せ」みたいな方がおられる。

訪問すると、大抵テレビをご覧になっておられるが、最近は朝から国会中継をご覧になって、しばしば抱腹絶倒で大笑いし、女性議員のファッションチェックまでしていらっしゃる。
「あいつ、着替えてきやがった」
などと。
こういった、世の中で起こっている出来事に関心を寄せる高齢者は、独居でも孤立しにくいかもしれない。一人で過ごしていても、アンテナを張って、「みんな」がいる外の世界と繋がることができるから。しかも、国会中継みたいな番組は、自分で思考する力が無いと、なかなか、見ていても意味がわからないものである。
国のため、みんなの幸せのために頑張って仕事してこられたからこそ、国が向かおうとするところを、じっと見つめて観察することができる。

こんなのは元気老人だから、介護保険は利用しなくていいんじゃないか、というと、一応重篤な疾病をお持ちの方である。

しかし、「お国のために」「世のため人のため」という動機の印象の良し悪しが、なぜ、人によって雲泥の差になるのだろう。
「お国のために」…ということがそもそもの目的ではなく、「みんなが幸せだと、オレ幸せ」だから、その手段としての仕事に心を尽くして励む、というのは悪いどころか、むしろ良いことである。
ところが目的自体が「お国のために」となると、 手段と目的との関係の逆転 から 狂気 に転じて、良い仕事も悪業と化する、ということか。
それか、人間のエゴが前提とされてしまうことで、「オレのため=国のため」で「オレ=国」のように短絡的にオレ様王様状態でキチガイ化してしまうのか。そうして、やがては「国のためって、国って何?」ということを思いつくと、「結局さ、オレ自身のためだよね」となり、それが「オレ自身って何?」ということを思いつく人に至っては、虚しさでやりきれないことになってしまったり。


わけがわからなくなってきた。
実は私の髪の生え際のつむじは、左巻きである。「お前は左巻きなのに、本当によく考えて頑張っているね」とダンナがホメてくれる。
左巻きの私には、なかなか人に伝えられるような正しい結論に辿り着けない。

厳密に、善悪の判断や良心のありようなどを、人に言葉で説明するのは、私には難しい。
一体、人は、どこで道を間違えるのだろう。