2012/07/18

最良ではなく「マシな方」を

今存在している自分は、断じて借りたくない人の手によって「生かされてしまっている」ことに負う部分は、大いにある。しかし、なるべくなら、そんな人の手は借りずにいたいものだ。

苦手とか嫌いにも色々とあるけれど、絶対「合わない」とわかっている人とでも、否応無く関わらざるを得ない、ということが、生きていると必ずある。

そういう人とは本来、関わることなくスルーできるなら、それに越したことはない。嫌だの苦手だのと思われて関わられる相手にも気の毒だから。
気の毒以上に、そういう相手と関わることで、相手との間に恨みツラミや僻み妬みなどの、不幸の元になりかねない情念を生み出しかねない。スルーできない場合に避けておきたいのは、この不幸の元の方である。

このテの避けて通れない道に出た時に、いかにして、この道を越えていくか、まず「辛抱」はどうしても要る。そして、「辛抱」をいかに緩和するかの知恵。「辛抱」だけで持ち堪えられるような容易い道ならば、まず悩む必要は無い。むしろ、悩むことをやめる。

しかし、悩むことをやめること、感受性を鎖してしまうことが、常態化するほどの長い道のりの場合、「辛抱」を緩和する知恵が、どうしても必要になってくる。悩まない、何も感じないという不幸を、私はこれまで幾度か目の当たりにしたので、そう思うのだが。

もちろん、こういった修羅の道に出た時、「辛抱」だけでは越えられないこともある。無事に生きて越えられたなら、幸運な人生だと言えるかもしれない。

何より、そんな道を一人で行くということは、無謀だということをわきまえた方がいい。だからこそ、そんな時に力になってくれる誰かがいる、ということは、ありがたい。
その、力になってくれる誰かがまた、絶対に「合わない」相手であることもあるのだが、そこは仕方なく、最良ではなく「マシな方」を選ぶのも、致し方ないのだろう。

何にせよ、それが私の特性に合っていないだけなのかもしれないが、感情労働というのは嫌な仕事である。
市場原理では、上手に私のような者をこの市場から淘汰してくれるはずなのだが、この職種は猫の手も借りたいほど人手が足りないらしく、無能なはずの私を淘汰すらしてくれない。
本当に。